ホログラフィー原理と量子情報の邂逅:エンタングルメントからの時空創発
はじめに
ストリング理論から派生した最も重要なアイデアの一つに、ホログラフィー原理があります。これは、ある時空領域における重力理論が、より低次元のその境界における非重力的な場の理論と等価である、という驚くべき対応関係を示唆するものです。特に、反ド・ジッター時空(AdS)上の重力理論と、その共形境界上の共形場理論(CFT)との対応(AdS/CFT対応)は、この原理の最も具体的な実現例として、この数十年間、理論物理学の多くの分野に深い影響を与えてきました。
近年、このホログラフィー原理と量子情報科学との間に、予想を超えるほど深い繋がりがあることが明らかになってきています。特に、量子エンタングルメントが、ホログラフィー的な対応における時空構造の創発やその性質を理解するための鍵となる役割を果たしていることが示唆されています。本稿では、このホログラフィー原理と量子情報の邂逅が生み出す新たな視点、特にエンタングルメントが時空の幾何学といかに結びついているのか、そしてそれが最新の研究でどのように探求されているのかをご紹介します。
ホログラフィー原理(AdS/CFT対応)の簡単な復習
AdS/CFT対応は、具体的には(d+1)次元のAdS時空上のタイプIIB超弦理論やM理論が、d次元のその境界上の特定の共形場理論と等価であるという対応です。この対応は、特に共形場理論が強い結合領域にあるときに、対応する重力理論が古典的な一般相対性理論で記述可能になる、という性質を持っています。これにより、これまで解くことが困難であったゲージ理論の強い結合の問題を、比較的扱いやすい重力理論を用いて解析することが可能になりました。
AdS/CFT対応の初期の驚くべき成果の一つに、バルク(AdS内部)のブラックホールのエントロピーと、境界CFTにおける熱的な状態のエントロピーとの一致があります。これは、ホログラフィー原理がエントロピーという情報論的な量と時空の幾何学(ブラックホールの地平面の面積)を結びつけていることを示唆していました。しかし、エンタングルメントという、よりミクロな量子情報論的な概念が時空の構造とどのように結びつくのかは、当初は明確ではありませんでした。
エンタングルメントと時空の幾何学:RT/HRT公式とER=EPR
この繋がりの最も具体的な形の一つとして、笠・高柳・琉・多久長谷による笠-高柳公式(RT公式)とその共変的な一般化であるハッセルバーグ・琉・多久長谷公式(HRT公式)があります(例えば、arXiv:hep-th/0605073v3, arXiv:0712.0960v2)。これらの公式は、境界CFTのサブ領域Aのエンタングルメントエントロピーが、バルク時空において、サブ領域Aに漸近する極小曲面ΓAの面積に比例することを示しています。
$$ S(A) = \frac{\text{Area}(\Gamma_A)}{4G_N} $$
ここで、$S(A)$はサブ領域Aのエンタングルメントエントロピー、$G_N$はニュートン定数です。この公式は、エンタングルメントという量子の非局所的な性質が、バルク時空の幾何学的な量(面積)と直接的に結びついていることを劇的に示しました。エンタングルメントが多いほど、対応するバルクの曲面も大きくなるということです。これは、時空の構造がエンタングルメントによって「支えられている」かのような視点を提供しました。
さらに深遠なアイデアとして、「ER=EPR」という提案があります(例えば、arXiv:1306.0533v2)。これは、アルベルト・アインシュタインとネイサン・ローゼンが提唱したアインシュタイン・ローゼンブリッジ(ERブリッジ、すなわちワームホール)と、アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンが提唱したエンタングルメント(EPRペア)との間に等価性がある、という大胆な予想です。このアイデアは、量子エンタングルメントがある二つの領域を結びつけるとき、それはバルク時空において、これらの領域を結ぶワームホールが存在することに対応するのではないか、というものです。これは、時空の連結性そのものが、境界における量子エンタングルメントのパターンから創発する可能性を示唆しています。
ホログラフィーと量子エラー訂正コード
近年、ホログラフィー原理の重要な性質、特にバルクにおける局所性が境界CFTの冗長性の高い非局所的な自由度から回復される仕組みを理解する上で、量子エラー訂正コードが強力な枠組みを提供することが明らかになってきました(例えば、arXiv:1411.0567v2, arXiv:1503.06237v2)。
ホログラフィー対応では、バルクの特定の領域(例えば、特定の時間に中心に近い領域)の情報が、境界CFTの広範な領域に非局所的に符号化されていると考えられています。これは、ちょうど量子エラー訂正コードにおいて、論理量子ビットの情報が、物理量子ビットの集合に非局所的に符号化され、一部の物理量子ビットが失われても情報が回復できる仕組みに似ています。
具体的なモデルとして、MERA(Multi-scale Entanglement Renormalization Ansatz)のようなテンソルネットワーク構造が、AdS時空の幾何学とバルク情報の符号化を記述する候補として提案されています。これらのモデルでは、ネットワークの各ノードが小さなテンソル演算子に対応し、ノード間の結合がエンタングルメントを表現しています。この構造は、バルクから境界に向かうにつれてスケールが変化し、エンタングルメントを適切に処理することで、境界における記述が得られるという点で、ホログラフィーと類似しています。量子エラー訂正コードの視点からは、バルク情報は特定の量子ビットの集合に冗長に符号化されており、バルク内の局所的な情報を回復するためには、境界CFTの複数の領域の情報を集める必要があることが示されます。これは、ブラックホール情報問題における情報の蒸発プロセスなど、ホログラフィーの理解を進める上で重要な示唆を与えています。
最新の研究動向と展望
ホログラフィーと量子情報の分野は、現在も非常に活発に研究が進められています。以下にいくつかのホットな研究方向を挙げます。
- 時空の創発とエンタングルメント: ER=EPRの考え方をさらに深め、どのようにエンタングルメントのパターンから時空の幾何学、さらにはダイナミクスが創発するのかを具体的に定式化する試み。量子情報理論のツール(例えば、量子多体エンタングルメントの測定や操作)を用いて、重力現象を理解する新しい道が開かれようとしています。
- 量子情報理論からの重力導出: 量子エラー訂正コードやテンソルネットワークといった量子情報的な構造から出発して、重力理論や時空の幾何学を「導出」することを目指す研究。これは、重力が量子情報理論の副産物である可能性を示唆しています。
- ホログラフィーと量子計算: AdS/CFT対応における量子計算の複雑性や情報スクランブリングの研究。ブラックホールの情報スクランブリング能力が、ホログラフィックな対応を持つCFTにおける特定の性質と関連づけられています。
- 非摂動的ストリング理論と量子情報: AdS/CFTは超対称性や共形性といった特殊な状況下での対応ですが、より一般的で非摂動的なストリング理論の理解に、量子情報的な視点がどのように役立つかを探る研究。
- 宇宙論への応用: de Sitter空間のような宇宙論的に重要な時空におけるホログラフィーや、量子情報の考え方が、宇宙の始まりや進化、ダークエネルギーなどの問題にどのように応用できるかについての探求。
これらの研究は、ストリング理論、重力理論、量子情報科学という異なる分野の境界領域で進められており、互いの分野に新しいツールと視点をもたらしています。
結論
ホログラフィー原理と量子情報科学の融合は、理論物理学において最もエキサイティングな分野の一つです。エンタングルメントが時空の構造と深く結びついていることを示唆するRT/HRT公式やER=EPRといったアイデア、そして量子エラー訂正コードによるホログラフィーの理解は、私たちに時空と重力に対する全く新しい視点を与えてくれました。
エンタングルメントが時空を「編み上げている」という比喩的な表現は、単なる詩的な言葉ではなく、RT/HRT公式や量子エラー訂正コードのモデルによって具体的な数学的構造として探求されています。この研究分野の進展は、ブラックホール情報問題の解決、量子重力理論の構築、さらには時空そのものの究極的な理解に繋がる可能性があります。今後の研究の展開に大いに注目していきたいと考えています。