ワームホールとエントロピー:AdS/CFT対応が示すブラックホール情報問題の解決の糸口
はじめに
ブラックホール情報問題は、量子力学と一般相対性理論の間の最も深い対立点の一つとして、長らく理論物理学の中心的課題であり続けています。スティーブン・ホーキングがブラックホールからの熱放射(ホーキング放射)を予言して以来、ブラックホールが最終的に蒸発するならば、それに伴い内部の情報が失われ、量子力学の基本原理であるユニタリー性が破られるのではないかという疑問が提起されました。この問題は、量子重力理論の構築において避けて通れない障壁となっています。
近年、ストリング理論から派生したAdS/CFT対応(反ド・ジッター空間/共形場理論対応)の進展は、このブラックホール情報問題に対し、全く新しい視点と具体的な解決の糸口を提供し始めています。特に、ワームホールとエントロピーの概念を組み合わせた「島(island)」のメカニズムは、情報回復の可能性を示す強力な候補として注目を集めています。本稿では、AdS/CFT対応がどのようにワームホールの幾何学と量子エントロピーを結びつけ、ブラックホール情報問題の理解を深めているのかを解説いたします。
ブラックホール情報問題の背景とAdS/CFT対応の役割
ホーキング放射は、ブラックホールが負の重力エネルギーを背景に粒子・反粒子対を生成し、そのうちの一方がブラックホールの事象の地平面から脱出することで生じます。この放射は純粋な熱的スペクトルを持ち、ブラックホール内部の情報とは無関係に思われました。もしブラックホールが完全に蒸発し、残されたのがこの熱放射のみであれば、ブラックホールに吸い込まれた物質が持っていた情報(例えば、それがどのような量子状態にあったかという情報)は宇宙から永遠に失われることになります。これは、量子力学の時間発展がユニタリーであるという原則、すなわち情報の喪失や生成がないという原則と矛盾します。
この問題の解決には、量子重力理論からの洞察が不可欠であり、AdS/CFT対応はその最も成功した例の一つです。AdS/CFT対応は、特定の条件下での重力理論(AdS空間における重力理論)が、その空間の境界に存在する重力を含まない量子場の理論(CFT)と数学的に等価であるという強力な双対性です。この対応は、重力的な自由度を場の理論の自由度として記述することを可能にし、ブラックホールのような強結合の重力現象を、CFT側の弱結合で理解できる可能性を開きました。
AdS/CFT対応の文脈では、AdS空間内のブラックホールはCFTにおける熱的な状態に対応します。ブラックホールが蒸発するということは、CFT側では特定の非平衡過程に対応すると考えられます。
ワームホールとエンタングルメント:ER=EPR仮説
ブラックホール情報問題の議論において、ワームホールは近年、重要な役割を果たすようになってきました。特に、フアン・マルダセナとレナード・サスキンドによって提唱された「ER=EPR」仮説は、深くエンタングルした二つのブラックホールが、アインシュタイン=ローゼンワームホール(ERブリッジ)によって接続されている可能性を示唆しました。
ERブリッジは、時空を繋ぐトンネルのようなもので、古典的には通過不可能ですが、重力と量子情報の間には深い関係があることを示唆しています。この仮説は、エンタングルメントという量子的な性質が、時空の幾何学的な構造、特にワームホールと密接に関連しているという画期的なアイデアを提供しました。
量子エントロピーと「島(Island)」のメカニズム
ブラックホール情報問題の解決に向けた近年の最大の進展の一つは、量子エントロピーの概念とワームホールの幾何学を組み合わせた「島(island)」のメカニズムの発見です。これは、ホーキング放射が情報を含んでいる可能性を示唆するものです。
従来のホーキング放射のエントロピー計算では、外部の放射領域のみを考慮していました。しかし、AdS/CFT対応の文脈において、重力理論における量子系のエントロピーを計算する際に、ある特殊な領域を考慮に入れる必要があることが示唆されました。この領域は「島」と呼ばれ、ブラックホール内部の領域を含む場合があります。
より具体的には、ホーキング放射によってブラックホールから放出された放射(通常、外部の領域Rと表記されます)のフォン・ノイマンエントロピーを計算する際、重力経路積分において、外部の領域Rと、ブラックホール内部に隠された「島」と呼ばれる領域Iを考慮に入れると、情報が回復される可能性が示唆されます。この「島」の概念は、以下のような「一般化エントロピー」の計算に繋がります。
$S_{\text{gen}}(R) = \min_I \left( \frac{\text{Area}(\partial I)}{4G_N} + S_{\text{matter}}(R \cup I) \right)$
ここで、$S_{\text{gen}}(R)$ は領域Rの一般化エントロピー、$G_N$ はニュートン定数、$\text{Area}(\partial I)$ は島Iの境界の面積、$S_{\text{matter}}(R \cup I)$ は領域RとIに含まれる場の量子論的なエントロピーです。この式は、外部放射のエントロピーが、重力的な項(島の境界面積)と物質場の量子エントロピーの和の最小値によって与えられることを意味します。この最小化が「島」の選択を決定します。
この「島」のメカニズムが重要なのは、ブラックホールの蒸発に伴い、ホーキング放射のエントロピーが時間の経過とともに、ブラックホール情報問題が要求する「ペイジカーブ」と呼ばれる挙動を示すことができるからです。ペイジカーブは、ホーキング放射が初期にはエントロピーを増加させるものの、ある時点(ペイジ時間)を超えるとエントロピーが減少し始め、最終的にゼロに戻る(情報が回復する)ことを示唆します。この「島」のメカニズムは、まさにこのペイジカーブを再現し、ホーキング放射が情報を含みうることを示唆するものです。
ワームホールは、この「島」の幾何学的実現として考えられています。つまり、外部の放射とブラックホール内部の「島」を繋ぐ量子重力的な経路として、ワームホールが寄与しているのです。これにより、外部の観測者が内部の情報にアクセスする、あるいは情報が外部に漏れ出すチャネルが提供されると解釈することができます。
今後の展望と課題
「島」のメカニズムとワームホールの役割に関する研究は、ブラックホール情報問題に対する最も有望なアプローチの一つとして、現在も活発に議論されています。この枠組みは、情報がどのようにブラックホールから脱出し、量子力学のユニタリー性がどのように維持されるかについて、具体的な描像を提供しています。
今後の課題としては、このメカニズムをより一般の重力理論や、より現実的な宇宙論的状況に適用すること、そしてその背後にある数学的・物理的原理をさらに深く理解することが挙げられます。また、AdS/CFT対応以外の量子重力理論、例えばループ量子重力などとの関連性も探求されるべきでしょう。この研究は、ブラックホールという極限的な重力環境における量子情報という、未踏の領域を切り開くものであり、量子重力理論の完成に向けた重要なステップとなることが期待されます。
結論
ブラックホール情報問題は、量子重力理論の試金石であり続けていますが、AdS/CFT対応の進展は、ワームホールと量子エントロピーの概念を介して、その解決への具体的な道筋を示しつつあります。特に「島」のメカニズムは、ホーキング放射が情報を含み、ユニタリー性が保持される可能性を強く示唆するものです。
この研究は、時空の幾何学(ワームホール)と量子情報(エンタングルメント、エントロピー)の間に存在する深遠な繋がりを明らかにし、私たちにブラックホールの本質、ひいては量子重力の本質を理解するための新たな視点を提供しています。今後もこの分野の発展が、素粒子論と宇宙論の最前線にどのような変革をもたらすのか、その動向から目が離せません。